会社員が書く雑記

雑記中心。気ままに書いてくよ

再読したら内容の理解がハンパない

 昨日は何だか疲労していたので、夕食後には力尽きてぐだぐだと皿洗いをした。どうにも気力がわかず、明日のご飯のために米を研がなければならないのを妻に手伝ってもらった。

 体力も気力も減っているのに、向上心だけが先走り、気持ちが焦る。勉強をしなければならないと思うのだが、まず何の勉強をすればいいのかも決まっていなかった。なのでその時に抱いた向上心は"宝の持ち腐れ"である。向上心が腐り、まともな精神にまで浸食していく。

 新しいことを覚えることに対して消極的な気分だったので、これまで読んだ本をもう一度読み返すことにした。


 本を二度目に読むときは、すでに大体の内容を知っているためすらすらと読むことができる。初めて読んだときに見落としていたことや、大事だけど忘れていた点を、再確認することができるのだ。

 内容につっかえることなく読めるので、読み進める時間も早い。だから以前よりも楽に読み終えることができる。


 実は私はこれまであまり本を読み返すことはしてこなかった。もっぱら乱読である。

 だから再読をすることで知識・理解が深まったことは、衝撃的だった。なぜならその本の内容をほとんど忘れ、全くと言っていいほど理解できていなかったからだ。

 本を読めば内容を思い出すことはできるのだが、再読をしていなければ思い出すことはなかっただろう。内容を知っていても、自分のものにするまでは及んでいなかったのである。

 それは本を読んだ意味がないのではないか、という疑問が浮かぶ。これまで割と多くの本を読んできたつもりだが、知識を自分のものにした量はどれくらいだろうか。おそらく100分の1あれば良い方だろう。


 ショックだった。

 私が手にした知識の多くは無意識の底に封じ込められてしまい、取り出されることなく埃を被っている。その中にどれだけ有用な知識があろうとも、自由に取り出せなければ活かすことができない。

 ずいぶん前に読んだ、脳が引き起こす錯覚について書かれた内容の本に関しても、ぼんやりとしか思い出せない。どんなときにどんな錯覚を起こしやすいのかがわかっていれば、現実に間違いを避けることができるかもしれないが、それらを具体的に思い出せないため、「なんとなく間違わないようにしよう」としか考えることができない。


 このように本を一度通して読むだけでは、曖昧な理解の仕方しかできず、自分のものにできたとは言えないのだ。

 思えば、学生の頃に教科書を一度読むだけで試験に挑んだことはあっただろうか。おそらく、特殊な頭脳を持っているか試験を最初から捨てているのでなければ、そんなことはしなかっただろう。

 誰もが教科書が不要になるくらい文法や数式等を理解・暗記し、問題を解くのに応用したのではないだろうか。

 読書と試験勉強は違うかもしれないが、「知識・経験を自分のものにする」という目的で本を読む過程は同じだろう。


 そういうわけで、私はこれまで読んできた本を再読してみることにした。新しい本を読むよりも気力の消費は少ないが、得ることができる理解の深度は深い。

 今の私には、新しい知識よりも、現実にアウトプットできるくらい深い理解を得ることの方が重要なのかもしれない。

 これまでしてこなかった新しい習慣なのだから、きっと良い方向へ変わっていくことを願う。