会社員が書く雑記

雑記中心。気ままに書いてくよ

宗教活動で灰色の大学生活を過ごした会社員 -卒業式もなかったよ-

 誰だって外れくじを引くことはある。それは運が悪いというしかないくらい理不尽なことだ。世の中は理不尽である。


 そもそもこの世に生を受けた時点で、生まれる場所さえ選べず、思考力が発達しないままに学ぶ場所も決められてしまう。
 何が正しいのか、何が間違っているのかもわからないまま、ただ生きている場所とその時点の人間関係に巻き込まれ、親、友人、タレント等、周囲からかろうじて得られた立ち振る舞いを行う。
 バランスの良い環境に身を置くことができた者は健全な発達を得られるだろう。
 しかし偏った思考や態度をスポンジのように吸収してしまった子どもは、バランスを崩したまま青春時代を過ごしてしまう。
 物心つかないうちは身の回りの全てを吸収し自分のものにしてしまうのだから、周囲が歪んていたら安定した立ち回りを覚えられないのも仕方がないことである。


 私は大学時代、某宗教団体の活動に参加していた。
 熱心な信者というわけではなかったのだが、生まれた時から入会させられていた。大学時代はアパートを借りて一人暮らしをしていたが、住所は親によってその教団の信者に伝えられていた。
 大学生活については親の援助が必要だったし、信者の方も悪い人ではないと思っていたので、特別拒否することはなかった。
 (近所に住む教団メンバーのおばちゃんがおかずを持ってきてくれたりもした。ジップロックに入れられて持ってきてくれたのだが、そのジップロックは洗って返すべきかということについて悩んだ)


 私は信者のうち学生で構成された組織に所属し、宗教活動を行った。
 学生信者の方が熱心にうちに訪問するので、暇だった私はずぶずぶと付き合うこととなった。


 この段階ですでに思考を放棄していたのである。
 大学生というものは、大いなる暇という時間に悶えながら、進むべき道を模索する期間でもあるはずだ。
 そりゃ元々道を決めていて猛進する者もいるが、単位と卒業にしか興味がない学生もいる。そういった学生にとって、暇というものは非常に有用な資源なのだ。
 その資源を私は宗教活動に充ててしまったのだ。自分の進路さえ想像できないまま、誰かを幸福に導くことなど可能だっただろうか。


 思考放棄した私は、学生団体の中でせめて見捨てられないよう、最低限の活動を行った。
 週末朝の活動、たまにある夜の活動、イベント毎の活動等。時間を膨大に浪費した。
 決意をもって活動する信者にとってはかけがえのない時間ではある。しかし私は自身の将来的なビジョンも持っていないその日暮らしの学生であった。私にとってその活動は時間の浪費としか言えないだろう。


 最低限の活動と自分では思っていても、他者からしたら「宗教活動を行っている」というラベリングをされるわけである。
 オンかオフか。宗教活動を行っているか否か。それが判断基準であり、他者にとって私がどのような心持ちで活動を行っているか等知ったことではない。
 それに日頃からぼんやりとしている私は本来の大学生活に対してろくな熱意を見せず、良い友人というものができにくかった。
 (大学生活当初にできた友人とは卒業まで長く付き合っていただいた。その中でも広く友人を持っていた彼はバランス良く過ごしていたし、狭い友人のみを持っていた彼は卒業ができなかったようだ。私は彼らに対して宗教的なアプローチは行わなかった)


 いつの間にか頭の中の半分は宗教のことで占められ、残った半分のリソースを用いて学生生活を送ることとなった。
 居心地の悪い学生宗教団体と、居心地の悪い大学で、私の精神が蝕まれていくのに時間はかからなかった。
 大学に入る頃はまだマシだった鬱やパニック障害も悪化していた。
 単位も思うように取得できず、卒業を半年延ばして秋に大学を出ることとなった。当然卒業式には出席しておらず、たしか大学の窓口で手続きを行った記憶がある。一人きりの味気ない卒業だった。
 大学留年と同時に、宗教活動とはやんわり縁を切った。学生信者からの連絡には応答せず、静かに去った。


 なぜ大学時代のことを思い返したかというと、最近大学の頃勉強した(かった)科目に関係する書籍を購入し読んでいるからだ。
 あの頃もう少し暇をもてあそんでいたなら、もしかすると自分の興味の対象にはっきりと気付けていたのかもしれない。なぜなら大学時代講義が面白いと思った瞬間は確かにあり、自発的な学習も多少なりとも行っていたからだ。もし暇だったら、その科目への興味が強まった可能性だってあるだろう。
 たらればばかりだが、自分のたらればが誰かのためになるならブログに書いておくのも悪くない。


 今でも単位が取れない夢を見て、目覚める度に自分が今30代で仕事をしており、大学を既に卒業した身であることに安堵する。


 別に宗教活動を否定するわけではない。
 私が言いたいのは、選択の意思が自分になければいけないということだ。
 私は宗教活動よりも心療内科に通うべきだったと強く思う。鬱やパニック障害というものは発症してしまったら心の持ち方ではどうにもならない脳の異常である。
 信頼できる医者により処方された薬を飲み、体調を安定させ、面白い勉学に身を投じることができたなら、少しはまともな青春時代だっただろう。
 その選択肢を誤ったのは自分であるが、そういった自分が育まれてしまったバランスを欠いた環境も一つの要因である。


 生活する環境が選べなかった。人間関係を選べなかった。
 親のせい?自分のせい?誰が悪かった?
 誰も何も悪いことをしていなくても不運は訪れるものだ。
 ただ、不運が訪れてからも自分が何を選択するかは自分で決めなければならない。
 不運に流され続けることを選択するのか、別の道に進むことを選択するのか。
 何もせずに時間を過ごす、という選択肢だってあるのだ。脳が疲れていたら判断を誤りやすいので、何もせずに脳を休めたっていいはずだ。いざというときにより良い選択をするために。