会社員が書く雑記

書きたいときに書けたらいいスタンス

ブログを9ヶ月温めた

 ブログをさ、9ヶ月放置してたんですね。
 以前は毎日更新を頑張ってみたりしてたんだけど、そんなにたくさん書いたら何も出てこなくなるんじゃないかって思って、なんかやる気がなくなってしまった。

 で、9ヶ月ぶりになんとなく書きたい気持ちがわいてきたんだけど。
 いざ編集画面を開くとまっっっったく何も書くことが出てこない。

 そりゃ更新してない間に色々起きたしそれを書けば文字数は稼げるよ。
 だけど別に劇的な生活をしていたわけじゃないからそれで面白くなるとも思えなくて。

 結局ブログを毎日書いても書かなくても、内容にほとんど変化は起きないのだと分かりました。
 内から出てくるものだからね。文章なんて。
 何もないけど書きたいからひねり出す、ということ。

 まあ期間が空いたことで、良い意味でどうでもよくなった。
 もっと自由に気ままに書いてみたいという気持ちです。
 日記にしてみたり備忘録にしてみたり。
 大した人間じゃないんだから、大したこと書けないのが当たり前だし。

 あと1000文字というのをどうにも意識してしまう。
 だらだら書いてればそのうち1000文字にいくんだけど、どうにか書かなきゃっていう意識が染みついちゃってる。
 そういうのは不自由だけど、むしろ一区切りつくという点ではちょうどいいのかも。
 今となってはなんで1000文字なんだっけっていう程度なんだけどさ。

 立派なブロガーになる!って意気込んでたこともあったね。
 今思うのは、立派じゃなきゃいけないのか、ということです。
 立派であることよりも大事なのは、やりたいことをやり続けることだと思うのです。
 結局立派なブロガーにはなれずに9ヶ月も放置してしまってるしね。

 書きたいって気持ちがうっすら出て、ようやく書くのがブログ論とかマジ何もねーのなって感じです。
 そりゃそうです。人生苦しすぎますもん。
 仕事して生活して仕事して生活して……のループなんか、普通に生きてたらマジクソです。
 私などは特に仕事での出世の見込みもない(できないししたくない)ですし、力の入れ処を見極めなければならないのです。
 こんなのが社会にごまんといると思うと切ないですね。

 金が稼げなくたっていいから、無目的に誰かと繋がりを持って少しでも人生を楽しくできたらいいなと最近思います。
 コミュ障だから何かのコミュニティに所属しても結局単独行動してしまうし除け者にされるのも怖いし、矛盾。
 だらっとゆるっとつかず離れず無目的な集まり、ないかな。
 そう思うとこういうブログとかインスタとかで投稿するだけなのがちょうどいい距離感なのかもしれない。

下手の横好きですが写真を撮ってます

 写真は恥ずかしいのでブログに載せる勇気はありません。プライベートのTwitterInstagramになら載せてます。そこなら私の写真が混ざってもそれほど目立たないので。

 そもそも写真って何なんでしょうね。わざわざそれ専門の学校まであるのに、私のような一端の会社員でもシャッターを切れば何らかの写真は撮れる。芸術とは到底言えないけれど。
 今スマホでブログを書いているが、「写真」と入力すると予測変換で「写真は心のシャッター」と出てきて全く意味がわからない。具体的なようで全く抽象的である。

 でも心が反応した対象を追及するということなら何となく理解できる。それはブログを書くことと非常に似通っているからだ。

 ブログを書いているときは「自分が考えていることは何か」を的確に表現しようとしている。記事のテーマや内容を事前に細かく考えてから書く、ということはほとんどなく、なんとなく書きたい気分になったらそのまま書き始める。
 そうするとその「なんとなく」が一体何なのか、ということを浮き彫りにしていく作業が、文章を書くという行為を通じて始まるわけである。
 ニュースに対して思うことがあったのか、日常に違和感を覚えたのか。今みたいに写真について考えてみたかったのか。
 書いた文章に自分で違和感を覚えないよう、的確な言葉を入力していく。

 それと同じように、カメラを持っているとき、心が少しでも動いたら「何に心を動かされたのか」を探り出しシャッターを押している。
 ふと心が揺れ動く瞬間、たとえば面白いものがあったり景色が綺麗だったり、そういったものに反応したとすると、さらにその何が私の心を動かしたのか、慎重に観察する。時には勢いでシャッターを切る。
 私はこれが面白いと思う。綺麗だと感じる。そういったものを写真に収めることで自分の心と向き合うことができる。
 他人に自分が感じた気持ちが伝わるかどうかは写真の腕のよさによるものだろう。

 言葉で表現することとレンズで捉えることは、そういった点で似通っているのだと思う。
 ブログも写真も下手の横好きですが、色々思うことはあるのです。

 良いブログとは何か。良い写真とは何か。
 まず「良い」とは何かについて考えながら、今日は目を閉じて眠りにつこうと思う。
 それではおやすみなさい。

体が動けばいいや

 自分が居る場所、例えば会社や家庭などに対して不満が募り、どうにかしてやろうかと思うことがある。正当な評価を得られていないと感じるときや理不尽な怒りをぶつけられたときなどだ。滅びよ……。
 いつ出て行ってやろうか。こんなことやってられるか。何故自分ばかりがこんな目に。
 そんなことを考えていたら気力が無くなった。元々やる気なんてなかった、なんて言い訳さえ浮かぶ。よく思い返してみれば少しはやる気があって始めたことなのに。


 元気に過ごそうと思えば思おうとするほど逆効果で、その場しのぎはできても後々虚無感に襲われてしまう。明るい人にはなれないな、と思う。
 そういえば昔からおばあちゃんに「男なんだからハキハキとしゃべるんだ↑(方言)」と言われて育った。私は物静かでゲームばかりやっていた人間なので心配されたのだろう。
 正直なところ明るく元気に過ごすことに何の魅力も感じない。大きな声を出すのも苦手だしそんなことはやれる人がやればいいのだ。


 こんな私でも日頃から粛々とやるべきことをこなしてきたため、陰鬱な性格ながら居場所があるようだ。自分が嫌っている場所で細々と求められている。
 とは言えこんなご時世ですので今すぐどうこうする気も起きない。嫌っていようが嫌われていようが、役割を果たし続けるものこそ求められるのだ。


 とりあえず体が動けばいいや。
 体が動くならそれに従って、動かなくなるまでやってたらいい。
 理想と現実のギャップとかいろいろあるけど、最低限のことだけやっていこう。結局無理は続かないし、続けられるということは無理じゃないということだから、大丈夫でしょう。
 

 誰かに求められているからこの場所にいていいんだ、なんて安っぽい満足感を得たりはしない。誰に求められていようがいまいがこの世界に生きているのは割と苦痛だ。身体は重いしなんだか頭も痛い。毎日やることをやらないとダメみたいで正直怠い。
 一体全体何のためなんだろうなと思うが、まあ動けないわけじゃないからよしとしておく。


 今週のお題を書いたのだけど、今週に限らずなんかずっと疲れているな。


今週のお題「やる気が出ない」

身体が重いならのろのろ動けよ

 家の掃除、炊事、仕事、勉強、趣味等、物事をスタートするタイミングというのは実は生活の中で多分にある。
 私の頭の中では素早く物事を片付けてあとはのんびり過ごす情景が浮かぶのだが、現実はどうにもうまくない。私の身体は鉛のように重く怠惰さに蝕まれている。


 だけど、ある時ふと「動き出すときはのろのろと」と心掛けるようになってから、なんだか身動きが軽くなったような気がする。
 のろのろ家を掃除する。のろのろ料理をする。のろのろ働く。実にスローな動きかと思いきや身体は確かに動いているので、一度始めた物事は結構すぐ終わったりする。
 というか自分ではのろのろ動いているつもりでも、実際は気合を入れて動き出したときと何ら変わらない速度だったりするものである。
 まあ集中力がピークに達しているときの速度は越えられないだろうが、別にすっトロいわけじゃないみたいだ。


 最初から効率的に素早く気持ちよくやろうなんて思うからハードルが上がるのだ。
 だんだん集中して気分が乗ってくるということに期待なんてするからハードルが上がるのだ。
 終始一貫してのろのろやってやろうと思えば、なに、大したことはない。ブログを書くときだって全く文章が書けないのだけど、のろのろ書いてたらいい。


 いや、動きが速い人は別にのろのろ動かなくていい。人それぞれ自分のペースがある。
 大事なのは自分のペースがどれくらいかということを知ることだ。
 どういう速さであれば動き出すのに精神的負担がかからないかを感じながら物事に取り組むといい。
 私の場合は超絶スローな動きが心地良いだけである。


 当然ながら何かに急かされてやらなければならない時もある。
 自分一人の世界であればそんなことはないが、人間社会の中で生きていれば他人と歯車を合わせて動く必要性がある。
 そんなときに超絶スローにのろのろとやっていたら顰蹙を買うだろう。うまくやってほしい。
 むしろ必要に迫られたらいとも簡単に動けるものなのだから心配は要らない。


 ちなみに私は生活一般が苦手なダメ人間である。
 以前もボールペンをそこら中に置きっぱなしにしてしまうことを憂う記事を書いた。
 
msne.hateblo.jp


 生活能力に欠けているなら自分なりの改善策を模索することを楽しむがいい。
 他人と同じ様に動けないのだから研究し甲斐があるのではないだろうか。
 もし改善策が見つけられたら能力を引き出すことも前より簡単になるだろうから、きっと楽しい。

コロナ禍において昔の旅行写真を見返してみて

 仕事の休憩中、ふと昔の社員旅行の写真を見たくなりサーバーにアクセスする。
 弊社は研修旅行という名目で毎年社員全員(勿論欠席者はいる)で旅行に行くのだ。去年は行けなかったけれど。


 写真を見ると、当然のように誰もマスクをしていない素顔のまま写る人々がいた。今ではほとんど見られない光景だ。
 皆が思うがままに観光を楽しんでいる。食事も人との距離感も自由だ。


 そういえば弊社の新入社員は社員がマスクを外した顔を知らず、写真を見て初めて素顔を知ったという。


 ところで先日某コンビニで買い物をしたときレジの人は当然ながらマスクをしていた。
 しかし胸元に名札が付いており、そこにはマスクをしていない素顔の写真が貼られていた。
 元気で可愛らしい店員だなと思ったが素顔も分からなかったため、思わず名札に貼られた顔写真を見ていた。ビニールカーテンで遮られておりよく見えなかったが、こういうふうに素顔を確認できることに安堵した。
 私自身もマスクをしているため人前で素顔を晒すことはほとんどなくなった。そのためマスクの下の表情はおそらく笑っていない。いや、むしろニヤニヤしているのかもしれない。ともかく誰にも素顔を見られないため、以前より表情を作る必要がなくなったのだ。


 誰もが素顔を隠さざるを得ない社会となってしまった。
 だけど素顔が写った写真があることでその人を知ることができる。そして思い出すことができる。
 口元から得られる情報にどれだけの意味があるのかは分からないけれど、素顔を知ることで少し安心できるのかもしれない。


 写真、撮っておいてよかった。私は写真家ではなければ撮るのが上手というわけでもない、ただのカメラを持った人だ。写真一枚撮るのにも結構苦労する。
 だけどこういう時に見返して何かを思い出すきっかけになったので、改めて写真を撮ることの意義を見出すことができた。


 鞄の奥にしまってあるコンデジを久しぶりに取り出して電源ボタンを押してみた。もう数ヵ月触っていない。
 意外とバッテリーは減っておらず問題なく起動した。
 画質に関してはデジタル一眼レフに劣るが取り回しの良さが気に入っている。
 被写体が素顔であるかどうかに拘らず、これからまた現在のあるがままを撮影して残しておきたいと思った。

ボールペンを溜め込んでいる

 私はボールペンを持ち歩き様々な場所で使用している。
 そしてその場所に置きっぱなしにしてしまい、いざデスクで書類に何かしら記入する際にボールペンが見つからず探し回る羽目になる。


 以前は2本用意し、1本を置き忘れてももう1本デスクにあるという状態だったが、だんだん2本ともどこかに置き忘れてしまうようになった。
 「使ったら元の場所に戻す」という基本的な生活能力が欠けているせいである。子どもの頃から口酸っぱく言われてきたことなのだが、大人になるまでに身に付けることはできなかった。当然部屋はゴミ屋敷だった。


 最近仕事のスケジュールに余裕ができたので、ボールペン置き去り問題を反省することにした。
 まず第一に使ったら元の場所に戻すことを心掛けることだが、そうは言っても「気を付ける」等という抽象的な対策は対策とならない。
 肝心なことは使いたいときにスムーズに取り出せることなのだ。
 そこで私はどうしたらペン立てにボールペンを常に置いておくことができるかを考えた。


 タイトル通り、ペン立てにボールペンを多量に置いておけば、いざ使うときに1本もボールペンがないという事態は起こり得ないのだ。
 さすがの私でも4本も5本もどこかに置き去りにすることはない。せいぜい作業場の箇所にそれぞれ置き忘れるくらいだろう。
 なので今私のペン立てにはボールペンが6本刺さっている。
 黒色のインクさえ使えれば問題ないのだが、一応3色、4色、シャープペンシル付きのものも揃えた。0.5mmと0.7mmの2種類があるが特に使い分けはしていない。


 これだけあれば好き放題置き忘れることができるだろうと思っていた。
 しかし数が増えたら増えたで、6本の内1本だけどこかに置き忘れてしまうということが気持ち悪く感じるようになった。何故かは分からないが、6本だったものが5本、4本と中途半端な数になってしまうのが嫌なのだ。
 2本だったときは1本だけもしくは2本とも無くなっていたらそれだけ探せばよかったが、6本になったらどれがどこに置いてあるかを把握していなければならず、散らばしたら散らばしただけ探し回らなければならない。そんな軽い強迫観念のようなものが心に生まれてしまった。
 結局のところボールペンは6本に増えたものの、1本使ったらきちんと元の場所に戻すようになったため、ペン立てには常に過剰な数のボールペンが刺さっている状態である。


 ちなみに私はuniのJETSTREAMを愛用しており、6本中4本がそれである。他の2本は遊びで買った3000円の物とフローティングペンだ。
 置き忘れはするがどれも大事なものに変わりはない。

年明け、仕事始め、61点主義

 年明けの仕事始めは全体で朝礼を行うが今年も例に漏れず一室に社員全員が集い朝礼を行った。その中で私の嫌いな人間ただ一人がマスクをしていなかった。人と感性が違うのだなと思った。


 朝礼以外は全く通常通りの仕事だった。散々辞めたいと思っていた会社だがこのご時世で仕事があるのはありがたい。粛々と役割を果たしたい。


 今年の目標は一応立てた。
 61点主義だ。
 なぜ61点かと言うと卒業した大学の単位認定ラインが61点からだったから、とりあえず基準として借りた。
 実は年末から61点主義を始めていたが、この評価基準を用いると自己評価が緩やかなため、忙しい年末でも穏やかに過ごせた。なので今年も61点主義を続けようと思う。


 今年の正月休みはどこへも出掛けられなかった。お互いの両親の家(県内)に行き来するくらいで日用品の買い出しを除きずっと家にいた。
 忘新年会もない。人との繋がりもすでに希薄だ。新しく出会うつもりもないけれど。
 世界がこのまま進んだら私たちはどうなってしまうだろうか。
 人々はウイルスその他災害のため外へ出ることができなくなり、オンライン上のアバターを用いて交流を行うようになった世界がやってくるのだろうか。
 ていうか既にSNSによってオンライン上での交流は盛んに行われるようになっているし、あとは5G技術とかが追い付いて遅延なく感覚を共有できるようになれば実現できそうな気がするけれど。


 とにかく現状は人との交流がなくなり、さすがの私もちょっとは不安になった。だからツイッター以上にチラシの裏と化したブログに書き散らすことにした。
 本当に職場と家との往復しかない人生になったらどうする。心の中ではまだ「そんなわけない」なんて思っていられたけど、どうやら実現しそうである。こわい。


 こうなったら生霊でも飛ばそうかな。あ、もちろんポジティブなやつ。

《雑談》生き霊ってどうやったら他人に飛ばせるの?