会社員が書く雑記

書きたいときに書けたらいいスタンス

身体が重いならのろのろ動けよ

 家の掃除、炊事、仕事、勉強、趣味等、物事をスタートするタイミングというのは実は生活の中で多分にある。
 私の頭の中では素早く物事を片付けてあとはのんびり過ごす情景が浮かぶのだが、現実はどうにもうまくない。私の身体は鉛のように重く怠惰さに蝕まれている。


 だけど、ある時ふと「動き出すときはのろのろと」と心掛けるようになってから、なんだか身動きが軽くなったような気がする。
 のろのろ家を掃除する。のろのろ料理をする。のろのろ働く。実にスローな動きかと思いきや身体は確かに動いているので、一度始めた物事は結構すぐ終わったりする。
 というか自分ではのろのろ動いているつもりでも、実際は気合を入れて動き出したときと何ら変わらない速度だったりするものである。
 まあ集中力がピークに達しているときの速度は越えられないだろうが、別にすっトロいわけじゃないみたいだ。


 最初から効率的に素早く気持ちよくやろうなんて思うからハードルが上がるのだ。
 だんだん集中して気分が乗ってくるということに期待なんてするからハードルが上がるのだ。
 終始一貫してのろのろやってやろうと思えば、なに、大したことはない。ブログを書くときだって全く文章が書けないのだけど、のろのろ書いてたらいい。


 いや、動きが速い人は別にのろのろ動かなくていい。人それぞれ自分のペースがある。
 大事なのは自分のペースがどれくらいかということを知ることだ。
 どういう速さであれば動き出すのに精神的負担がかからないかを感じながら物事に取り組むといい。
 私の場合は超絶スローな動きが心地良いだけである。


 当然ながら何かに急かされてやらなければならない時もある。
 自分一人の世界であればそんなことはないが、人間社会の中で生きていれば他人と歯車を合わせて動く必要性がある。
 そんなときに超絶スローにのろのろとやっていたら顰蹙を買うだろう。うまくやってほしい。
 むしろ必要に迫られたらいとも簡単に動けるものなのだから心配は要らない。


 ちなみに私は生活一般が苦手なダメ人間である。
 以前もボールペンをそこら中に置きっぱなしにしてしまうことを憂う記事を書いた。
 
msne.hateblo.jp


 生活能力に欠けているなら自分なりの改善策を模索することを楽しむがいい。
 他人と同じ様に動けないのだから研究し甲斐があるのではないだろうか。
 もし改善策が見つけられたら能力を引き出すことも前より簡単になるだろうから、きっと楽しい。

コロナ禍において昔の旅行写真を見返してみて

 仕事の休憩中、ふと昔の社員旅行の写真を見たくなりサーバーにアクセスする。
 弊社は研修旅行という名目で毎年社員全員(勿論欠席者はいる)で旅行に行くのだ。去年は行けなかったけれど。


 写真を見ると、当然のように誰もマスクをしていない素顔のまま写る人々がいた。今ではほとんど見られない光景だ。
 皆が思うがままに観光を楽しんでいる。食事も人との距離感も自由だ。


 そういえば弊社の新入社員は社員がマスクを外した顔を知らず、写真を見て初めて素顔を知ったという。


 ところで先日某コンビニで買い物をしたときレジの人は当然ながらマスクをしていた。
 しかし胸元に名札が付いており、そこにはマスクをしていない素顔の写真が貼られていた。
 元気で可愛らしい店員だなと思ったが素顔も分からなかったため、思わず名札に貼られた顔写真を見ていた。ビニールカーテンで遮られておりよく見えなかったが、こういうふうに素顔を確認できることに安堵した。
 私自身もマスクをしているため人前で素顔を晒すことはほとんどなくなった。そのためマスクの下の表情はおそらく笑っていない。いや、むしろニヤニヤしているのかもしれない。ともかく誰にも素顔を見られないため、以前より表情を作る必要がなくなったのだ。


 誰もが素顔を隠さざるを得ない社会となってしまった。
 だけど素顔が写った写真があることでその人を知ることができる。そして思い出すことができる。
 口元から得られる情報にどれだけの意味があるのかは分からないけれど、素顔を知ることで少し安心できるのかもしれない。


 写真、撮っておいてよかった。私は写真家ではなければ撮るのが上手というわけでもない、ただのカメラを持った人だ。写真一枚撮るのにも結構苦労する。
 だけどこういう時に見返して何かを思い出すきっかけになったので、改めて写真を撮ることの意義を見出すことができた。


 鞄の奥にしまってあるコンデジを久しぶりに取り出して電源ボタンを押してみた。もう数ヵ月触っていない。
 意外とバッテリーは減っておらず問題なく起動した。
 画質に関してはデジタル一眼レフに劣るが取り回しの良さが気に入っている。
 被写体が素顔であるかどうかに拘らず、これからまた現在のあるがままを撮影して残しておきたいと思った。

ボールペンを溜め込んでいる

 私はボールペンを持ち歩き様々な場所で使用している。
 そしてその場所に置きっぱなしにしてしまい、いざデスクで書類に何かしら記入する際にボールペンが見つからず探し回る羽目になる。


 以前は2本用意し、1本を置き忘れてももう1本デスクにあるという状態だったが、だんだん2本ともどこかに置き忘れてしまうようになった。
 「使ったら元の場所に戻す」という基本的な生活能力が欠けているせいである。子どもの頃から口酸っぱく言われてきたことなのだが、大人になるまでに身に付けることはできなかった。当然部屋はゴミ屋敷だった。


 最近仕事のスケジュールに余裕ができたので、ボールペン置き去り問題を反省することにした。
 まず第一に使ったら元の場所に戻すことを心掛けることだが、そうは言っても「気を付ける」等という抽象的な対策は対策とならない。
 肝心なことは使いたいときにスムーズに取り出せることなのだ。
 そこで私はどうしたらペン立てにボールペンを常に置いておくことができるかを考えた。


 タイトル通り、ペン立てにボールペンを多量に置いておけば、いざ使うときに1本もボールペンがないという事態は起こり得ないのだ。
 さすがの私でも4本も5本もどこかに置き去りにすることはない。せいぜい作業場の箇所にそれぞれ置き忘れるくらいだろう。
 なので今私のペン立てにはボールペンが6本刺さっている。
 黒色のインクさえ使えれば問題ないのだが、一応3色、4色、シャープペンシル付きのものも揃えた。0.5mmと0.7mmの2種類があるが特に使い分けはしていない。


 これだけあれば好き放題置き忘れることができるだろうと思っていた。
 しかし数が増えたら増えたで、6本の内1本だけどこかに置き忘れてしまうということが気持ち悪く感じるようになった。何故かは分からないが、6本だったものが5本、4本と中途半端な数になってしまうのが嫌なのだ。
 2本だったときは1本だけもしくは2本とも無くなっていたらそれだけ探せばよかったが、6本になったらどれがどこに置いてあるかを把握していなければならず、散らばしたら散らばしただけ探し回らなければならない。そんな軽い強迫観念のようなものが心に生まれてしまった。
 結局のところボールペンは6本に増えたものの、1本使ったらきちんと元の場所に戻すようになったため、ペン立てには常に過剰な数のボールペンが刺さっている状態である。


 ちなみに私はuniのJETSTREAMを愛用しており、6本中4本がそれである。他の2本は遊びで買った3000円の物とフローティングペンだ。
 置き忘れはするがどれも大事なものに変わりはない。

年明け、仕事始め、61点主義

 年明けの仕事始めは全体で朝礼を行うが今年も例に漏れず一室に社員全員が集い朝礼を行った。その中で私の嫌いな人間ただ一人がマスクをしていなかった。人と感性が違うのだなと思った。


 朝礼以外は全く通常通りの仕事だった。散々辞めたいと思っていた会社だがこのご時世で仕事があるのはありがたい。粛々と役割を果たしたい。


 今年の目標は一応立てた。
 61点主義だ。
 なぜ61点かと言うと卒業した大学の単位認定ラインが61点からだったから、とりあえず基準として借りた。
 実は年末から61点主義を始めていたが、この評価基準を用いると自己評価が緩やかなため、忙しい年末でも穏やかに過ごせた。なので今年も61点主義を続けようと思う。


 今年の正月休みはどこへも出掛けられなかった。お互いの両親の家(県内)に行き来するくらいで日用品の買い出しを除きずっと家にいた。
 忘新年会もない。人との繋がりもすでに希薄だ。新しく出会うつもりもないけれど。
 世界がこのまま進んだら私たちはどうなってしまうだろうか。
 人々はウイルスその他災害のため外へ出ることができなくなり、オンライン上のアバターを用いて交流を行うようになった世界がやってくるのだろうか。
 ていうか既にSNSによってオンライン上での交流は盛んに行われるようになっているし、あとは5G技術とかが追い付いて遅延なく感覚を共有できるようになれば実現できそうな気がするけれど。


 とにかく現状は人との交流がなくなり、さすがの私もちょっとは不安になった。だからツイッター以上にチラシの裏と化したブログに書き散らすことにした。
 本当に職場と家との往復しかない人生になったらどうする。心の中ではまだ「そんなわけない」なんて思っていられたけど、どうやら実現しそうである。こわい。


 こうなったら生霊でも飛ばそうかな。あ、もちろんポジティブなやつ。

《雑談》生き霊ってどうやったら他人に飛ばせるの?

気持ちが置いてけぼりになってしまわないように

 寒さと眠気で動けない朝。できるだけ意識を働かせないよう目をつぶりながら家を出る準備をした。
 こんな日はこんな日はこんな日は。ずっと続いている怠い日々。
 そんな気持ちでも一生懸命働くことはできる。仕事が嫌いでも、別に業務遂行能力には全く問題がない。ただ怠いだけ。


 人間そんなものだよな、と思う。学生の頃の勉強にせよ今の仕事にせよ、ちっとも面白みを感じなくても、なんとなくやってたらそこそこの生活は送ることができる。
 勉強できれば異性と話すきっかけが増えるし、仕事ができれば人との信頼関係が築ける。どんな人生でも過ごしやすさと金はあった方がいいだろう。
 勉強に意味がるのかとかこの仕事が何に繋がっているのかとか、そういう無駄さと矛盾はそこら中にある。
 そして正しく生きようと思うと逆にそれに囚われがちになるんだけど、無駄・矛盾と共存することは生きてたら当たり前なんだよなあ。


 会社に行きたくない、働きたくない。だけど身体はしっかりと動く。この事実で十分だと思う。私は立派に生きている。
 気持ちが乗っていない自分に疑問を抱く必要はない。もちろん変えられるものは変えた方が心地良いに決まってるのだけど、変えることに躍起になることもない。
 たまに、気持ちが置いてけぼりになってしまわないように、言葉にしてみたり感動したりして自分を取り戻す。
 そしたら人に優しくしてみたり勇気を出してみたりって気持ちが乗っていないはずの日常にささやかな変化が起きて、少しはマシになるんじゃないか。


 久しぶりにブログを書いているわけだけど、ここ最近は書いては消し書いては消しの繰り返しで全く更新ができなかった。ツイッター以上にチラシの裏と化しているのに、だ。
 自分が書くことに全く価値を感じられなかった。今も別に価値があるとは思ってはいないが、気持ちを言葉にすることに意味があるとは思っている。ついでに誰かに見られる可能性があるブログに書くことである程度の客観性が保てるという理由で、ブログという形をとり続けている。


 最近はパニックの症状が少し収まりつつあるが、寒さと日照時間の少なさが不安なので気を付けて生きたい。

疲れていたけど

 珍しく夫婦共々お休みの日だった。私は残業続きで正直疲れていたのだが、軽自動車を2時間走らせ二人で遠方へ出掛けた。観光でも何でもない、ただの買い物だ。
 普段食べない高級なランチを食べ、いつもと異なる街を散策したことで、物珍しさに心がときめいた。
 県内の中心地ではないのだがここも栄えているのだな、何ならここの方が暮らすのが楽しそうだな、といった感じだった。海も近いし。中心街と違って店舗にきちんと駐車場があるのはとても便利だ。わざわざ大型駐車場に車を置いて歩き回らなくて済む。ただガソリン代はいつも入れる安い場所よりも10円以上高かったので悩みどころだ。別に引っ越す予定はないのだけど。


 ランチの時、いつ発作が起きるか分からない不安を抱えながら食べていたのだけど、真剣に慎重に食事と向き合っていた。普段食べることのない綺麗に盛り付けられた美味しい食事。向き合うというのは別に戦うとか立ち向かうという意味ではなく、楽しむということでもあるのだなと感じた。まあまだ不安なので7割程度しか食べられなかったのだけど、発作は起きなかった。
 30代にもなって物事に向き合うことから始めるなんて、毎度のことながら生きるのが下手なんだなと思った。私はいつもそうなのだ。人よりもスタートラインがずっと手前で、基礎の基礎のそのまた基礎から学ばなければならない。好きなことなら器用にこなせるのだけれど。


 ところで最近ブログがご無沙汰なのは、文書を書いても途中で何を書いているのか分からなくなって次々下書きに突っ込んでいるからだ。
 ブログを書くことでもう少し何かの気持ちよさに繋がればモチベーションになるのだけど、別にそこまで私のブログが求められているとは思わないので何様のつもりなんだということになる。
 何だろう。何を求めて書いているんだろう。基本的にチラシの裏にでも書くようなことばかりなのでモチベーションがどうとか関係ないはず。


 あと自分の小遣いを全く使っていないので物事の体験が少ない。過去に買うと書いたゼルダ無双も見送る予定となった。守銭奴という生き方に快感を覚えてしまったので、しばらくは金を貯め続けるだろう。
 「経済を回さなければならない」なんて誰が言い始めたのか知らないが、そんなものは私のような低所得者ではなくどこかの金持ちが回せばいい話だ。
 まあ自分の小遣いだけの話なので、家庭全体での収入はそこそこ使ってはいるので極端に守銭奴というわけではないだろう。


 なんだか空っぽのような人生だけど、この世界は広いので私のような人間が生きるくらいのスペースはいくらでもあるのだ。
 ゆっくり生きていこう。

まだまだ向き合う

 日常の些細なことから逃げることを止め、現実と向き合い続けている。成果としては食器の片付けが早くなったり仕事を素早く片付けられたり、まあまあ良い感じの現状だ。まだまだ発作の不安はつきまとっているのだが、やはりと言うか、問題から逃避しようと考えると発作が強くなる感じがする。そして問題(と思っていること)に向き合うと心に決めると、問題の本質が見えてきて実は大したことではないとわかることもあった。


 幼い頃から問題と向き合う癖は付けておくものだった。私はとにかく逃避しようとする癖が付いていたので物事を上手くこなすことができなかったようだ。そんなことで市役所に行くだとかお店の予約を入れるだとか、必要なことがてんでダメになるなんて。


 救いなのは今の時代は良い薬がたくさんあることだ。
 薬の力で上手く発作が抑えられたら、とりあえず問題の解決を考えたらいい。今からでも取り返しのつくことだ。次第に問題と向き合う癖ができて、薬を飲まなくても発作は消えてなくなる、かもしれない。


 世の中には意味がわからないけどやらなきゃいけないことがたくさんある。子どもの頃の暗記科目、好きな子を喜ばせること、地元の団体の飲み会、朝礼でのスピーチ。どれもこれも全く価値を感じなかったら、そんなのはゲームだと思って遊ぶのがいい。
 とりあえず向き合ってみて、ついでに自分が気持ちよくなる方法を考えてみたい。